京アニ放火事件から思う理性と知性に対する限界
あまりにもいたましく、悲惨な事件が起きた。
京都アニメーションのスタジオにガソリンで火をつけ、30名以上の死傷者が出た。
犯人とされる男は「パクりやがって」と謎の発言を残し、現在は意識不明の重体である。
おそらく犯人の意識が回復したとして、犯行の動機が語られることがあってもおそらく「???」となるような発言しか出ないだろう。
ガソリンを大量に持ち込み建物に火をつけるなど頭と心がおかしくなければとてもできない蛮行である。奴は我々の理性の外側にいる。
今回の事件に対しては全容があきらかになっていない点は多々あるが、「放火して30人以上の死傷者を出した」という点は揺るぎない事実である。
犯人に対しては厳罰――死刑を望む声が圧倒的に多いようだ。
凶悪事件に対しては死刑をさかんに求める声が出る一方で、次のような冷静な声も見かけることができる。
たとえ凶悪犯であっても、法に則って、感情的になることなく冷静な判決を出そう
クソくらえと言ってやりたい。
理性的であること
感情に流されないこと
客観的視点から考察すること
それぞれは非常に正しい。
だがすべてがそんな視点から考えることが正しいとは到底思えない。
現代の病理の一つだと私は思っている。
理性的であることや客観的であることが絶対的に正しい思考の在り方だと信じ切っている馬鹿があまりにも多くないか?
感情論をあまりにも蔑ろにしすぎていないだろうか。
法順守の精神であったり人権擁護の視点は間違いなく大切だ。だがルールを守ることにやっきになって自分自身や自分の身の回りの人間を守ることをおざなりにしていないだろうか。
被害者、被害者の家族や友人、彼らの気持ちを考えれば犯人に対して到底許せないという気持ちが沸くのは人として当然のことである。
そんな怒りでさえも「感情的」と一蹴して理性的であろうとする輩は私にはとても理知的な存在には思えない。もちろん犯人に対して何の怒りも沸かないというサイコパスの存在については言うことはない。人類という枠組みにいない獣だから考えるだけ無駄。
自然に湧き上がる感情を踏まえたうえで、冷静になるべき点と感情的になるべき点の両軸がある。
そもそも感情論を切り捨てて考えることなど法律は実は想定していない。情状酌量なんかまさにその典型である。
厳格な法の場でさえ、感情的な視点を含めている。
少しは自分の感情に素直になって、自分の感情をしっかりと咀嚼してそのうえで理屈をつくろうというお話でした。