優秀であれば就職には困らないという言説にもやっとする
優秀とは何か
仕事におけるキャリアの積み方に対する考え方はかつての終身雇用型から大きくシフトしている。
とかく語られるのは「大企業に入社したからといって一生安泰とは限らない」「その会社だけでしか通用しないスキルではなく、どこにいっても通用するスキルを身につけよう」といったキャリア論だ。
つまり会社におんぶにだっこではなく、自ら能動的に身につけるスキルや歩みたいキャリアを意識して戦略的に働いていこうという類の、まあ意識高い提言だ。
この理屈自体は何も間違っていない。時代や状況に合わせて自分の生き方を柔軟に変えることは大切だ。
それゆえに私はこの理屈にもやっとするものを感じている。もやっとするのは頭で考えれば正しいが、何か見落としていることがあるという違和感からだと思う。徒然なるままに書き起こしてみよう。
・優秀であれば就職や転職でさほど苦労することはない
この意見に異を唱える人はいるだろうか。おそらくいないと思う。だが上記の意見はあまりに漠としている。優秀であれば――では優秀とは何をもって判断しているのか?
まずはキャリアを積んだ中途採用のパターンで考えてみよう。
経理なら簿記1級を持っている? 営業職なら昨年の売上10億稼いだ? エンジニアなら最新の技術動向に詳しく技術書なんか執筆してる?
――確かにそれぞれで優秀さを表す実績があることは間違いない。だがそれは同じフィールドで転職する場合だ。経理から営業への転職なら簿記1級は評価されないかもしれない。営業からエンジニアへの転職なら「Hello World」のコードも書けなければ評価されないかもしれない。エンジニアから経理への転職なら借方貸方がわからなければ評価されない。
会社の採用における優秀さとはフィールドによって大きく変わるパラメータにすぎない。ある場面では無能扱いだけどある場面では頼られる。どの場面でも頼りになるようなスーパーマンは早々いない。
林先生がなにかのテレビで言っていたように自分ができること・得意なことを仕事にするとうまくいく。自分が輝けるフィールドを見つけ出すことがまず優秀になることの第一歩なのだろう。
新卒に求めている優秀さとは?
では新卒の場合はどうだろうか。彼ら彼女らの大半――いやほとんどは就業経験がない。(就業経験がないからこその新卒なのだが)
仮に大学や院で専門分野をみっちり研究してきたとしても、仕事や実務の場ではちょっと使い物にならないということは往々にしてある。
端的にいえば新卒のほとんどは会社にとってのお荷物。実際採用は中途に限定している会社も数多く存在する。
企業はそのお荷物の中から将来会社に利益を与えてくれるであろう人物を採用する。ではそのとき決め手になるものは何か。企業が新卒に求めるものはこれである。
注目ポイントはコミュニケーション能力と主体性らしい。
要は主体性があるように振る舞って物おじせずコミュニケーションとれればいいですよ、と言っているのだ。そこにスキルや能力といったものはさほど重要視されていない。
――いやコミュニケーション能力も立派なスキルの一つではあるが…
新卒一括採用を批判することによって生まれる断絶
キャリアに求める優秀さとは、実績と実際に今もっている実務レベルのスキル。
新卒に求める優秀さとはコミュニケーション能力と主体性。
一口に優秀といっても立場や自分が今おかれている状況によってその定義は変わる。新卒であればスキル面での優秀さはさほど求められない。中途であれば目先の仕事をこなせるくらいの能力があればOK。そんなもんである。
だがそれを旧態依然、時代の流れについていけないと考える者もいる。冒頭で述べたような意識高い人たちだ。たいてい若くして起業して成功を収めていたりして発言力も説得力もある。ブログとかtwitterとかその界隈を探せばうじゃうじゃ出てくる。
要は通年採用にして新卒という概念を無くし、インターン等で実際に働かせてみて使えそうだったそのまま採用――ということが良いよねというお話。
なるほど合理的だ。実際新卒の3割が入社した会社を3年以内で退職しているというデータもいたるところで目にするし、実際に働いてみて自分が本当にマッチングしたと思える企業に入社を決めることは双方にとってもメリットの方が大きい。
だけどね、上記の採用方法が完全に一般化したときに私はどうしようもない不公平感があるわけよ。
その採用可否を決めるてめーらは新卒時代をポテンシャル採用で乗り切ってんじゃねーかって。
自分たちはポテンシャルとか将来性とかいう甘い採用基準で社会人スタート切ることができて、自分がいっぱしに仕事できる人間になったら新卒からある程度仕事できる人間しか採用しないってことを言ってるに近い。人を育てるという意識が全然ない。いや、人を育てないといけないという義務も責任もないのは確かなんだけどなんだかなぁ~って。
貧富の再生産ならぬ優秀さの再生産。まあ優秀とみなされないやつはお金もらえないので結局は貧富の再生産か。
優秀であればいいというなら既存社員のクビをどんどん斬る必要がある
結局これって先行者利益みたいなもんだと思ってる。
というのもどの企業も採用できる人数には限りがある。従業員数100名の会社が応募者みんな優秀だからといって1000人採用するなんてことはありえない。
だから通年採用にしてインターンで働きぶりを見て採用を決めるというなら、もう一歩踏み込まないといけない。
それは既存社員で優秀でない者は雇用を切るというものだ。
例え話をしてみよう。
従業員1000名の会社があったとする。毎年100人の新卒を採用している。この会社は採用試験を筆記試験でやっており点数が高い者100名を採用することとしている。100名の採用は絶対で問題は毎年同じとする。
この条件で優秀さを示す尺度は試験の点数のみだ。
XX年度の得点分布はこんな感じ。
100点・・・90名
90点・・・10名
85点・・・10名
XY年度の得点分布はこんな感じ。
80点・・・80名
60点・・・20名
55点・・・10名
この場合XX年度の採用者の最低点数は90点となる。残念ながら85点の10名は不採用となってしまった。
しかしXY年度の採用者の最低点数は60点。採用者の最高点ですら80点だ。
出題される問題は毎年同じという条件なので結果だけ見ればXY年度の採用者よりXX年度の不採用者の方が優秀といえる。
それを各年度の点数競争なのだから仕方ない。世の中そんなもんだと言ってしまうのは簡単だ。(というより事実そうである)
だが問題はそこではなく、採用数を100名に絞っていることが優秀な人材を求めることと矛盾していないだろうか。
新卒を100名採用するということがミッションではなく、優秀な社員を採用したいというのであればとるべき施策は1つ。既存社員にも同じ試験を受けさせて成績の悪い下位100名をクビにすればよいではないか。
で、仮にこんな結果が出たとしよう。
100点・・・応募者100名
95点・・・既存社員900名
90点・・・既存社員100名
採用すべき人材は誰なのか一目瞭然である。
「いや今この人にプロジェクトを抜けられたら困る」とかあるかもしれないが、その立場こそ仕事を通じて得た先行利益――いやもうはっきり言ってしまえば既得権益なのである。
優秀であれというならば、優秀な人が時の運なんかではなく実力でその座を勝ち取る世界にならなければ本来はいけない。
表題の言説は「もう自分の立場が危ぶまれることはない」という安穏とした――いわば上から目線の言説であろう。それをかなぐり捨てる勇気と覚悟、あるいは弱肉強食の世界上等俺こそが会社いやこの世界でトップクラスに有能だという自信があるならば優秀な人材を欲することや「優秀であれ」とアドバイスすることはかまわない。
そういう人は先ず正社員の解雇規制緩和運動から始めるべきだ。それが良い社会を生み出すかは別にして。