新型コロナの果てに救われる人
新型コロナウィルスが全世界で猛威をふるっている。
このコロナウィルスはまぎれもなく人類に対する警告である。
かつて人類に「智慧」を与えた存在――それは宇宙人なのか、それとも神なのか、もしくはそのどれとも呼べない存在なのかはわからないが――によって、これまで人類に育ませてきた「智慧」では対処しきれない難問を、時空を超えて人類に突きつけた。
以下、人類に「智慧」を与えた存在を「X」としよう。
これまでも多くの天変地異や流行病や災害はあった。
それらに対する対応は満点ではなかったのかもしれないが落第点でもなかっただけなのかもしれない。
だけどそれは「X」にとっては、例えば学生が試験の前日に一夜漬けで挑むような態度に映っていたのかもしれない。
普段、我々は何が大切だと思って生きているのだろう。
どうしても目先のことに固執していないだろうか。
例えば今はあらゆる娯楽が制限されている。ライブ、カラオケ、レジャー、その他にもいろいろだ。
そうするとどうしても我々は不満を感じてしまう。ストレスを感じてしまう。
これは目先にあるはずだった「快楽」というものが奪われたからだ。
そう思うと意外と我々の生活は「快楽」がものすごく身近に、そして大量にあったのだなと痛感する。
我々の「快楽」が制限されることによって、もうひとつ我々が固執しているものが浮かび上がってきた。「経済」である。
イベント運営者はイベントの中止に追いやられたり、外出自粛によって客足が激減したり、そもそもディズニーランドのように営業そのものを停止することによって、そこで働く従業員の給与補償も問題となり、全国(全世界)で消費が停滞することによって経済そのものがダメージを受けていることは言うまでもない。
日用品が売れても、インフラが整備されても、爆発的な経済活性にはならない。
というのも現代の経済は必要不可欠な商品で経済を回していないからである。
現代で売れるものは付加価値がついたものだ。
例えばテレビを買うときにとりあえず地上波だけが映ればいいという人よりも、大量の番組を同時に録画したいとかYouTubeやNetflixを大画面――しかも8Kで観たいという人の方が消費額が多い。
鞄も物がとりあえず入ればいいという人より、どこかのブランドがいいという人の方が消費額は大きくなりがちである。
農業や介護、教育といった社会に必要な業界の賃金基準が低く、テレビや広告といった虚業のような業界の賃金基準が高いことが、必要不可欠な商品で経済を回していないことの証左である。
そして我々は生きる上では必ずしも必要ではない「快楽」に金を費やしている。
さて「X」の話に戻ろう。
「X」は訴えている。
お前ら人類に必要なものは何なのか、と。
地震もあった。
台風もあった。
ハリケーンもあった。
季節外れの雪が降り、季節外れの大雨もあった。
南極の氷は融けている。
森林は減っている。
「X」は訴えている。
お前ら人類が必要とするものは何なのか、と。
「X」が考えている答えは今の我々にはわからないかもしれない。
だがヒントはある。
「X」が与えた「智慧」が抽象化されたものは何か。
それは宗教である。
宗教は考え方や言葉の使い方に違いはあれど、いくつかのテーマについては共通している。
「人はどう在る(生きる)べきか」
「愛とは何か」
方舟をつくる時間は残されているだろうか。
私は決してその時間はあまり残されていないように感じている。
要はマスクやトイレットペーパーを買い占める時間が無駄だよということさ。