教師が「いじめ」問題を解決できない根本的な理由
だいぶ長いことこのブログを放置していたようである。
今ちょうど台風19号が来てて暇なので久しぶりに。
色々書き留めておきたいことは多々あるけれど、 今回はこの事件に関連してつらつらと書き留めておきたいと思う。
兵庫でおきた公立小学校での教員間の「いじめ」事件である。
ここでは今回の事件そのものについてはあまり直接的に触れない。教師になった理由と教師の資質そのものについての考えを記しておきたい。
いじめっ子は昔からいじめっ子
今回「いじめ」を行ったとされる加害者側の教員たちは「悪気はなかった」「悪ふざけだった」と証言したり、一部の女性教師は「いじめ」そのものを否定しているようだ。
彼らの発言は私たちが納得できるできないにかかわらず本心なんだろうと思う。
というのも彼らはこれまでの人生のなかで数多くの「いじめ」を楽しく行ってきたからだろう。
それは当然学生時代まで遡る。大人になって「いじめ」の快感を覚えることはまれで、たいていは子供の頃から誰かをいじめて相手を屈服させてきた経験から、大人になっても「いじめ」を止められないモンスターとして成長する。
仮に教師が「いじめ」を発見して指導しようとしても、本人たちは「悪気はなかった」「悪ふざけだった」と口先だけの反省を述べてやり過ごし、教師たちも大事にしたくないため問題は解決したという体でやり過ごしてしまう。
結局、いじめの加害者は誰かをいじめたことによるペナルティや苦しみを覚えることはほとんどなく、むしろ「いじめ」=楽しいものという認識と、バレても適当な言い訳で乗り切れる成功体験を積んできたことは想像に難くない。
学校=楽しく自由に振る舞える場所
そんな学生生活を歩んできた彼らにとって学校は、自分がわがままに振る舞えるめちゃくちゃ楽しい環境と呼べる。
その楽しい環境で働きたいと思うのは別に不思議なことじゃない。
それこそ教師になれば、一般的には新卒一年目のペーペーはどこに行っても最下層の存在だが、教師であれば職員室内のカーストは別にして「生徒」という下の者がたくさん存在する。さらに自分は偉い・特別な存在だと錯覚する。普通の人間ならどこかの段階で「自分、調子に乗ってるな」みたいに自己を振り返って己の身を正すこともあるが、彼らの場合はそんな殊勝な感性など持ち合わせていないため更に増長する。*1
そら自分は神のような存在だと思えば、同僚に激辛カレー食わせて車破壊するくらいは大したことないわな。むしろ「俺がかまってやって感謝しろ」くらいには思ってるかも。
教師がいじめを根本的に解決できない理由
上で書いたことって教員志望者の志望理由と深くかかわってくると思ってる。
たいてい教員志望する人の志望理由って「学生時代お世話になったあの先生のような教師になりたい」とか「金八先生に憧れて」とか「子供が好きだから(意味深)」とかいうのが大半で、「神として偉ぶりたいから」みたいな理由で教員を目指すやつって本音は別として建前でも語ってる人ってまず見たことがない。
そもそも教員を志望する人って、学校が楽しいものって前提がある。
良い教師に巡り合えた人、勉強が得意でよく褒められた人、スポーツが得意でクラスの人気者だった人、生徒会長とかやってみんなから好かれた人、真剣に部活に取り組んだ人。なんならいじめの主犯格として君臨した人も含めていい。
こんな人たちにとっては学校というものは後から思い返してみれば、キラキラと輝く青春の思い出。とても美しく楽しい思い出の方が多いんだろう。
逆に教師から嫌われやすい人、勉強が苦手な人、休み時間に寝たふりして友達がいないのを誤魔化していた人、体育の時間で「二人一組つくって」と言われて狼狽える人、部活に入ってなかった人、幽霊部員だった人、そしていじめられていた人。
こういう人たちにとって学校は退屈で苦痛なだけで、さらに教師は碌な人間がいないという考えに至る。
こういう人たちが学校の教員を志望するだろうか。
なかには自分がいじめられた経験から「いじめ」のない、あるいはいじめられる生徒に寄り添う教師になろうと志す人もいるだろう。
だがそれはかなりの少数派なんだと思う。
「いじめ」に屈しない、不登校は負け、いじめられる方が悪い、いじめられる方にも原因がある。
こんな風潮を撒き散らし、とにかく学校に来ることを前提とする教育方針は、スクールカースト上位の強者の理論だ。
当然である。
教師になった者の大半は学校生活を楽しんできた者たちであり、学校が苦しい環境だという感覚を持たずに生きてきた者たちなのだから。
*1:このタイプは教師に限らずたくさん存在するが