教師が「いじめ」問題を解決できない根本的な理由
だいぶ長いことこのブログを放置していたようである。
今ちょうど台風19号が来てて暇なので久しぶりに。
色々書き留めておきたいことは多々あるけれど、 今回はこの事件に関連してつらつらと書き留めておきたいと思う。
兵庫でおきた公立小学校での教員間の「いじめ」事件である。
ここでは今回の事件そのものについてはあまり直接的に触れない。教師になった理由と教師の資質そのものについての考えを記しておきたい。
いじめっ子は昔からいじめっ子
今回「いじめ」を行ったとされる加害者側の教員たちは「悪気はなかった」「悪ふざけだった」と証言したり、一部の女性教師は「いじめ」そのものを否定しているようだ。
彼らの発言は私たちが納得できるできないにかかわらず本心なんだろうと思う。
というのも彼らはこれまでの人生のなかで数多くの「いじめ」を楽しく行ってきたからだろう。
それは当然学生時代まで遡る。大人になって「いじめ」の快感を覚えることはまれで、たいていは子供の頃から誰かをいじめて相手を屈服させてきた経験から、大人になっても「いじめ」を止められないモンスターとして成長する。
仮に教師が「いじめ」を発見して指導しようとしても、本人たちは「悪気はなかった」「悪ふざけだった」と口先だけの反省を述べてやり過ごし、教師たちも大事にしたくないため問題は解決したという体でやり過ごしてしまう。
結局、いじめの加害者は誰かをいじめたことによるペナルティや苦しみを覚えることはほとんどなく、むしろ「いじめ」=楽しいものという認識と、バレても適当な言い訳で乗り切れる成功体験を積んできたことは想像に難くない。
学校=楽しく自由に振る舞える場所
そんな学生生活を歩んできた彼らにとって学校は、自分がわがままに振る舞えるめちゃくちゃ楽しい環境と呼べる。
その楽しい環境で働きたいと思うのは別に不思議なことじゃない。
それこそ教師になれば、一般的には新卒一年目のペーペーはどこに行っても最下層の存在だが、教師であれば職員室内のカーストは別にして「生徒」という下の者がたくさん存在する。さらに自分は偉い・特別な存在だと錯覚する。普通の人間ならどこかの段階で「自分、調子に乗ってるな」みたいに自己を振り返って己の身を正すこともあるが、彼らの場合はそんな殊勝な感性など持ち合わせていないため更に増長する。*1
そら自分は神のような存在だと思えば、同僚に激辛カレー食わせて車破壊するくらいは大したことないわな。むしろ「俺がかまってやって感謝しろ」くらいには思ってるかも。
教師がいじめを根本的に解決できない理由
上で書いたことって教員志望者の志望理由と深くかかわってくると思ってる。
たいてい教員志望する人の志望理由って「学生時代お世話になったあの先生のような教師になりたい」とか「金八先生に憧れて」とか「子供が好きだから(意味深)」とかいうのが大半で、「神として偉ぶりたいから」みたいな理由で教員を目指すやつって本音は別として建前でも語ってる人ってまず見たことがない。
そもそも教員を志望する人って、学校が楽しいものって前提がある。
良い教師に巡り合えた人、勉強が得意でよく褒められた人、スポーツが得意でクラスの人気者だった人、生徒会長とかやってみんなから好かれた人、真剣に部活に取り組んだ人。なんならいじめの主犯格として君臨した人も含めていい。
こんな人たちにとっては学校というものは後から思い返してみれば、キラキラと輝く青春の思い出。とても美しく楽しい思い出の方が多いんだろう。
逆に教師から嫌われやすい人、勉強が苦手な人、休み時間に寝たふりして友達がいないのを誤魔化していた人、体育の時間で「二人一組つくって」と言われて狼狽える人、部活に入ってなかった人、幽霊部員だった人、そしていじめられていた人。
こういう人たちにとって学校は退屈で苦痛なだけで、さらに教師は碌な人間がいないという考えに至る。
こういう人たちが学校の教員を志望するだろうか。
なかには自分がいじめられた経験から「いじめ」のない、あるいはいじめられる生徒に寄り添う教師になろうと志す人もいるだろう。
だがそれはかなりの少数派なんだと思う。
「いじめ」に屈しない、不登校は負け、いじめられる方が悪い、いじめられる方にも原因がある。
こんな風潮を撒き散らし、とにかく学校に来ることを前提とする教育方針は、スクールカースト上位の強者の理論だ。
当然である。
教師になった者の大半は学校生活を楽しんできた者たちであり、学校が苦しい環境だという感覚を持たずに生きてきた者たちなのだから。
*1:このタイプは教師に限らずたくさん存在するが
NHKは騒動をおさめたいなら早急にスクランブル化すべき
先日の参議院選挙で「NHKから国民を守る党」(以下、N国党)が議席を獲得した。
獲得した議席数はわずかひとつ。だがその存在感は議席数では測れないほどに影響を与えているようだ。
NHKはHPと番組内で受信料に関する声明を出すし、N国党党首の立花氏のYoutubeチャンネルの登録者数も日に日に増えているようだ。
N国党とNHK受信料問題。いろんな意見が見受けられるのでこの辺で少し整理したいと思う。要点は赤字で太く表現するつもりだ。
法律面から考えるNHK受信料
NHKは受信設備を持つ者に対して受信契約を結ぶ義務がある。これについては契約自由の原則に反するのではないかという観点で争われたことがあるが、NHKの受信契約については契約自由の原則の範囲外という判断らしい。
ただその契約の履行、すなわち受信料の支払いについては法律で強制されていない。
N国党立花氏の主張の一つだ。要は契約履行については当事者間――NHKと国民の間で個別に解決すべき事案なのだ。受信料を支払わないということで逮捕されることもないし、何らかの罰を受けるということもない。NHK側は個別に受信料不払いの者に対して受信料を支払うように訴える必要があるのだ。そう、個別に。
法的義務のない行為をあたかも義務であるかのようにいうNHKは希代の詐欺集団といってもいいだろう。
・受信設備を持つ者はNHKと契約を結ぶ義務はあるが、支払う法的義務は存在しない
NHKの集金人が契約用紙を持って訪問することがあると思う。
この契約用紙には受信機を設置した日を記入する欄が存在する。
さて、あなたはテレビを設置した日を正確に思い出せるだろうか。
調べればわかるのかもしれないがたいていの人はわからないと思う。
こんなときNHKの集金人はこんなことを言うかもしれない。
「設置日がわからなければ本日の日付からでも結構ですよ」
え? ってことは過去の受信料の分も免除されるってこと? ラッキー!
と思ってはいけない。実はこれも放送法に違反する行為なのだ。
放送法64条には以下のようにある。
協会は、あらかじめ、総務大臣の認可を受けた基準によるのでなければ、前項本文の規定により契約を締結した者から徴収する受信料を免除してはならない。
つまりNHK側が勝手に受信料の免除等を行うことは許されないのだ。放送法を守れというくせに自分たちが放送法を守っていないというワケわからん事態になりがちだ。上記のような発言を引き出せたらN国党に連絡しよう。できれば音声つきで。
・過去の未契約期間の受信料をNHKだけで免除することは放送法違反
そもそもNHKに自宅にテレビの有無を申告する必要はない。
ただ最悪なのはテレビがあるにもかかわらずNHKにテレビなど持っていないということ。これはれっきとした嘘をつく行為なので下手したら詐欺扱いです。絶対にやめましょう。
ちなみに過去の受信料未払いの時効は5年である。
だがNHKはそんなことは関係なく5年以上遡って支払いを要求してくることがあるのでその場合はきちんと時効援用の手続きを内容証明郵便で行いましょう。
詳細はこちら↓
N国党に対する批判はまっとうか
N国党ないし立花氏は方々から厳しい意見を受けているようだ。私が散見した意見を羅列する。
・ワンイシュー政党はその他の問題に関心がないため議席や税金の無駄
・頭数を揃えるために問題ある議員に手当たり次第声をかけていて節操がない
・N国党に対する投票は単なるバカのお祭り騒ぎ
・なんか気持ち悪い
おおざっぱに言うと上記の意見が多いかなという印象。それでは各意見にコメントをしていきたいと思う。
・ワンイシュー政党はその他の問題に関心がないため議席や税金の無駄
ナンセンスな意見だとしか言えないですね。そんなことをいうなら国会で居眠りしたり当選後の公約を無かったことにする議員の方がまったく議席や税金の無駄ですね。
もしワンイシュー政党であることを問題とするなら、例えば「年金問題のみ」を解決するために全力で動こうとする政党があったとしましょう。極論ではありますが彼らが唱える政策を実行すればありとあらゆる年金問題が解決する!というものでも、「ワンイシュー政党だから」という理由で投票しないのでしょうか?
・頭数を揃えるために問題ある議員に手当たり次第声をかけていて節操がない
丸山議員をはじめとした「問題お抱え議員」に声をかけているのは確かに印象としては良くはない。だが立花氏が主張するようにまず数を確保するというのは政治手段としては至極真っ当である。むしろ悪名でも認知度を高めたいという思惑もあるようなので。
だが今後はもう少し人員を厳選すべきだし、おそらくそういうふうにシフトしていくのではないかと個人的には思っている。厄介なのは敵より愚かな味方なので後ろから撃たれるリスクを少しでも減らすためにもね。
・N国党に対する投票は単なるバカのお祭り騒ぎ
これはマツコ・デラックスが言っていましたね。他にも同様のことを言っている芸能人やコメンテーターもいますが、これを書いている時点で一番ホットなのはマツコなのでマツコに集約しちゃいましょう。
もう少し小難しく言えばN国党への投票行為はポピュリズム的であるという批判です。
まずマツコの発言については完全なポジショントークです。これはマツコに限らず芸能人全般に言えることでしょう。ここで公然とNHKを批判したらNHKから仕事もらえないですから。芸能人は公的にはN国党を批判するより他にない。
次にポピュリズム的であるとの批判。
だけどそれを言い出したらこれまでの選挙すべてポピュリズム的でしょう。知名度だけで当選を果たしてきた元芸能人議員、何人いますか?
深い考えなしに投票したという意味なのであれば、私からすれば自民党に投票した奴は税をはじめとした経済を真剣に考えていないし、れいわ新撰組をはじめとした野党に投票した奴は外交・国防を真剣に考えてないでしょ。
で、この前の参議院選挙はほっといても自民党が勝つということは予測できるわけ。
でも経済的な観点からいうと諸手をあげて自民党に投票するということはしにくい。
…おや?NHKから国民を守る党?なんだこの胡散臭い政党は。どーせウケ狙いのお遊びだろ。でもまあ調べてみるか……
…
…
真っ当なこと言ってね?
どうせ今回は自民党が過半数は取るだろうし、NHKウザいから一票入れといてやるか。
まあ上記は僕の話*1なんですが、これをまったくお祭り騒ぎで短絡的に投票したと言われるとそれはちょっと違うでって反論したくなる。
実際N国党に投票した人をバカにしたマツコは結構バッシングを受けてるし。
そもそも立花氏の意見を真っ当に論破している意見を見たことがない。
立花氏やN国党に対する批判は基本的に感情論であったり、現行の放送法をNHKのために都合よく強引に解釈したかのような何の論理性もない意見*2ばかり。
立花氏の弁がたつというのもあるが、何より真っ当な論理展開で意見を言っているだけなのでNHK側もだんまりを決め込む対応しかとれないという現実がすべてを物語っている。
・なんか気持ち悪い
これについてはまったく同意。
だが立花氏も言っているが、そもそもそんなヤバい組織が勢力を持てる状況がヤバいのである。
集金人の悪態、ワンセグやカーナビからの徴収、果てはネットからも受信料を取り立てなどやりたい放題のNHKに対する国民の反感が高まっているからこんなことになっている。
とはいえやはりN国党の存在はなんか気持ち悪い。
私としてもNHKとしてもそのような政党は国政の場から速やかに退場してもらいたいという想いはおそらく一致するのではないだろうか。
なのでN国党をさっさと国政の場から退場してもらうにはNHKがすみやかにスクランブル化を実現することである。
立花氏と喧嘩しながら放送法を改正していくより、はるかに簡単ですぐにでも実現できる解決策である。
少女☆歌劇 レヴュースタァライト #2 Transition revival を観て
スタァライト #2 の舞台再演
2019年7月12日~7月15日にかけて舞浜アンフィシアターでスタァライトの舞台 #2 Transition rivaival すなわち「再演」が開催された。
千秋楽最終公演はライブビューイングも実施された。
今回上演される舞台は2018年10月に天王洲の銀河劇場にて上演された舞台の再上演である。
正直私は迷っていた。何せ前回の舞台はライブビューイングとはいえ観劇しているし、BDも持っている。
同じ舞台を――しかも決して安いとは言えない値段(一番安い一般席でも9000円!)を出してまで観るべきかと。
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だけど日々twitterとかで流れるキャストからの「演出が大きく変わってます!」という宣伝ツイート。
うう……やっぱ気になる……。
タイミング的にも休暇をとれるか不安な時期ではあったため15日の昼公演だけ、一般で買った。
その決断をした自分を誉めてやりたい!
以下感想
諸々の出来事と感想
舞台スタァライトは二部構成となっている。一部は舞台で二部はライブパート。思い出せるだけ書き出してみる。
〇一部
・アンフィシアターはステージが円形となっており、横からも舞台が見えるつくりとなっている。それでいて収容人数は2000人ほどのキャパなので後方席でもよほど目が悪くなければ普通に観劇できる。
・観客席の通路やステージの奈落をめっちゃ活用してる。
・2年A組の三大悲劇↓ ソースは純那
・八雲先生(小林由佳さん)のアクション!
・目と脳みそが足りない。影分身を習得すべきだったと後悔。
〇二部(ライブ)
セトリは確かこんな感じ。
・星のダイアローグ
・ディスカバリー!
・Circle of the Revue
・舞台少女心得 幕間
・Star Divine
・Bright Light
・百色リメイン
・99 ILUSION
・Green Dazzling Light
・カーテンコール
ごめん…正直Star Divineあたりからテンションマックスで曲順は正確じゃないかも…。
星のダイアローグ~Star Divineまでは前回公演のセトリと同じ。直近に出たシングルの新曲がセトリに追加されていましたね。
で、最高にエモいのがBright Lightは九九組と青嵐で歌ってたんだけど観客席に下りて歌ってくれたんですね。しかも前の席だけじゃなくて後ろの方の席まで来るというサービスぶり。
そら入場時に金属探知機で検査するわ。
事前にすでに舞台を観ていた他の舞台創造科の方から
遺書は書いておいた方が良い
舞浜に骨を埋めることになる
と聞いていたので覚悟していたのだが、ほんとに舞浜に骨を埋めることになったぜ…。
最後のエンディングトークは先生組が大活躍。
あの瞬間、走駝先生はアイドル声優椎名へきるになっていた。死ねる。
今後の展開
千秋楽公演の告知では以下の情報が発表された。
は?
は!?
さすがにフロンティアは加藤英美里さんと竹達彩奈さんの出演はないようだが、フロンティアの声優は他の学校と比べてなぜかガッツリ人気声優を使っているだけにこの手のイベントには出ないものと思っていたので、非常にびっくりした。
欲しくもない缶バッジを追加で購入して3rdスタァライブの先行抽選に応募した甲斐があるってもんよ。
まずはあらゆる手を使って11月に予定されている3rdライブに参戦したい所存であります。
舞台少女は日々進化中!
京アニ放火事件から思う理性と知性に対する限界
あまりにもいたましく、悲惨な事件が起きた。
京都アニメーションのスタジオにガソリンで火をつけ、30名以上の死傷者が出た。
犯人とされる男は「パクりやがって」と謎の発言を残し、現在は意識不明の重体である。
おそらく犯人の意識が回復したとして、犯行の動機が語られることがあってもおそらく「???」となるような発言しか出ないだろう。
ガソリンを大量に持ち込み建物に火をつけるなど頭と心がおかしくなければとてもできない蛮行である。奴は我々の理性の外側にいる。
今回の事件に対しては全容があきらかになっていない点は多々あるが、「放火して30人以上の死傷者を出した」という点は揺るぎない事実である。
犯人に対しては厳罰――死刑を望む声が圧倒的に多いようだ。
凶悪事件に対しては死刑をさかんに求める声が出る一方で、次のような冷静な声も見かけることができる。
たとえ凶悪犯であっても、法に則って、感情的になることなく冷静な判決を出そう
クソくらえと言ってやりたい。
理性的であること
感情に流されないこと
客観的視点から考察すること
それぞれは非常に正しい。
だがすべてがそんな視点から考えることが正しいとは到底思えない。
現代の病理の一つだと私は思っている。
理性的であることや客観的であることが絶対的に正しい思考の在り方だと信じ切っている馬鹿があまりにも多くないか?
感情論をあまりにも蔑ろにしすぎていないだろうか。
法順守の精神であったり人権擁護の視点は間違いなく大切だ。だがルールを守ることにやっきになって自分自身や自分の身の回りの人間を守ることをおざなりにしていないだろうか。
被害者、被害者の家族や友人、彼らの気持ちを考えれば犯人に対して到底許せないという気持ちが沸くのは人として当然のことである。
そんな怒りでさえも「感情的」と一蹴して理性的であろうとする輩は私にはとても理知的な存在には思えない。もちろん犯人に対して何の怒りも沸かないというサイコパスの存在については言うことはない。人類という枠組みにいない獣だから考えるだけ無駄。
自然に湧き上がる感情を踏まえたうえで、冷静になるべき点と感情的になるべき点の両軸がある。
そもそも感情論を切り捨てて考えることなど法律は実は想定していない。情状酌量なんかまさにその典型である。
厳格な法の場でさえ、感情的な視点を含めている。
少しは自分の感情に素直になって、自分の感情をしっかりと咀嚼してそのうえで理屈をつくろうというお話でした。
怒りとは
人間の感情で一番コントロールできる感情は「怒り」だと思っている。
ここでいうコントロールとは、状況や相手に対してその感情を露出させるかさせないかといったものである。
つまり感情自体は発生しているけれど、その感情を他の人間にわかるように露出させるか否かという観点だ。
怒りは相手と状況によってその露出を使い分けている。
例えばあなたが街を歩いていて、いきなり誰かに足を思いっきり踏みつけられたとしよう。いきなり足を踏みつけられてあなたは怒りを覚える。あなたの足を踏みつけてきた人が見知らぬ子どもだったら、あなたはその子どもに対して怒りますか?
怒ると答えた方、足を踏みつけた人物が、あなたが勤める会社の上司でも同様に怒りますか?
怒らないと答えた方、足を踏みつけた人物が、あなたの嫌いな人でも同様に怒らないですか?
怒るという行為を他人に向けるとき、自分が勝てそうな相手や自分より弱い相手に対しては強気に怒ることができますが、自分より立場が上だったり自分が勝てそうにない相手には強く怒ることがなかなかできないと思います。
と、思っていたら同じことを言っているブログを見つけました。
アドラーですね。
ちなみに感情を露出させるという意味でのコントロールが一番難しいのは「笑い」だと思っています。
口元がにやけたりするのを我慢して抑えるのって難しいじゃないですか。
怒りは我慢して人にわからないようにすることはそんなに難しくないけれど、笑いは人にわからないようにするって難しい…というか無理だと思う。
笑いを我慢してるってそれだけでもう色々な表情筋使って不自然に見えるし。
夏に向けて
ユニクロで夏用のオフィス服を購入。
最初は西友の8700円スーツを見てみたが、ジャケットが暑い感じがしてやめといた。
ユニクロの感動ジャケットは軽い素材でだいぶ涼しい感じ。
同じ素材・同じ色の感動パンツを購入。
購入したのはウルトラライト・コットンライク。
これもだいぶ涼しそうだ。
夏用に着用していたスーツがもう寿命だったので適当に安いものを…という感じ。
ジャケットとパンツ合わせて1万円なのでだいぶ価格を抑えられた。量販店とかだとどうしても1万5千~2万はかかりそうだし…
黒のセットアップなので普通にスーツっぽく使える。
私服勤務とはいえスーツ(っぽい)服をもっておくことにこしたことはない。
外出して客に会うときはスーツだしね。上は着ないけど。
あと黒のセットアップにしたのはいざというときの葬式に使えそうという理由もある。
人間いつ死ぬかわからない。
最近そんなことがリアルにあったので…
その方は令和を迎えることなく亡くなられました。ご冥福をお祈り申し上げます。
池袋暴走事故から主張したい~日本という国は人治主義的
逮捕は警察のさじ加減ひとつ
2019年4月19日。池袋にてある交通事故が発生した。
87歳の男性が運転していた車が暴走し、歩行者10人ほどをはねたとのこと。そのうち31歳の女性と3歳の女児が亡くなられた。親子だったという。運転手は「アクセルが戻らなくなった」と証言した。
これだけ聞けばまたボケた高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えたのだろうか…というだけの事件として流れていったのだろう。
だがこの高齢ドライバーが何者かわかると事態は思いがけない方向へ舵を切った。
運転していた飯塚幸三さんは元官僚で瑞宝重光章なる勲章も受賞されているほどのエリート…上級国民であったことが判明。
警察は今回の事故について任意で捜査を進めていくつもりのようだ。
ではここでほぼ同時期に起きた自動車事故のいくつかの報道をみてみよう。
違いにお気づきだろうか?
後者2件はその場で運転手が逮捕されているのに対し、池袋暴走の飯塚幸三さんは逮捕されていない。
これは池袋で車を暴走して人をはねた飯塚幸三さんが事故後に怪我をしていたからという理由と逃亡や証拠隠滅等のおそれがないかららしい。
ふーん(笑)
なお池袋で車を暴走して歩行者10名余りをはねた飯塚幸三さんは退院後も逮捕されないそうです。
ふーん(笑)
当然世論ではなんで池袋で車を暴走して歩行者10名余りをはね、母子2名の命を奪った飯塚幸三さんが逮捕されないのかと炎上したらしいですね。まっとうな批判だと思います。
でも今回の事故で飯塚幸三さんが逮捕されなかったことで、日本という国は事実上人治主義であるということがはっきりと世間に伝わるきっかけになったのではという期待も不謹慎ながらあります。
なぜ日本が人治主義なのか。難しいことは言いません。シンプルな理屈です。
現在の法律運用は人治主義的
例えば故意による殺人罪は以下のように規定されている。
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
これだけである。
法を厳格に適用するのであれば被告Aは死刑か無期懲役か5年以上の懲役刑のいずれかがくだる。
だが現実には殺人罪であっても執行猶予がつくケースは存在する。
執行猶予がつく条件は「3年以下の懲役」であるため、殺人罪で裁かれる場合は執行猶予など絶対につくはずがない。
だが現実に殺人罪であっても執行猶予がつくケースはいくつか存在する。いわゆる情状酌量の余地というやつだ。
だが情状酌量の余地があるかというのはきわめて主観的でないだろうか。判決を出す人間が被告に同情すれば量刑が軽くなったり、思想や考え方で判決そのものがひっくり返るというリスクが常につきまとう。裁判官や裁判員がもつ心象や解釈が裁判の結果というものを不安定なものにしている。これは判決に不服があれば控訴すればいいというものではない。控訴してもまたダメな裁判官にあたれば意味がないからだ。
近代法における最大の弱点は罪に対する量刑を具体化できなかった点にある。
指針としてあるのは過去の判例である。その判例が適切なものであったのか。そういった検証はされることなくただ判例としてゾンビのように生き残る。
過去の判例を理由に適切な量刑を与えられなかった事件、裁判官の気持ちひとつで量刑が変わるリスク。それらのコストを裁判というかたちで国民全員が負担しているということに気付くべきだ。
どんな理由があろうと殺人罪なら無期懲役、窃盗なら懲役3年、詐欺なら懲役10年など杓子定規に量刑を決めてしまうほうが混乱はなかっただろう。
最後に整理しよう。
要するに人の思惑や解釈が入り込む以上、平等・公平な法律運用はできないということだ。
池袋の事故の話題に戻ろう。
逮捕の必要性に関する法律は以下である。
逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。
「明らかに」とはどういう意味なのだろうか。いったい何をもって被疑者が逃亡も証拠隠滅もはからないと判断するのだろうか。しかもその判断を下すのは裁判官という「人」である。この裁判官が職務をまっとうするという保証は?
そもそも池袋の暴走事故の問題は警察が逮捕状を請求しようともしていないことだ。なぜこれほどまでの事件で逮捕状請求の動きが一切ないのか。逮捕状を請求するという判断を下すのはいったいどこの誰なのか。
都合のいいように法律を運用している。
これを人治主義といわずして他に何と呼べばいい。