多様性の裏に潜む単一性
現代は「多様性」の時代だけど
『鈴木先生』という漫画が好きだ。ドラマ化・映画化もされてはいるが、やや古く少しマニアックな作品である。
過剰とも思えるほど思考する漫画であり、セリフ――文章量も多い。
そのなかでとりわけ好きなエピソードというか鈴木先生の教えに多様性についての考察がある。引用したい。(以下、引用はすべて『鈴木先生』 7巻より)
現代は「多様性」の時代と言われる! 様々な価値観を一人一人が自由に選択することが許されているからだ
しかしその結果一人一人の心の中はどうなったか――
葛藤をさけて オレはこれ わたしはこれと たった一つの考えをめいめいで選んで済ましている!
個人の自由という言葉によって私たちは自分自身で好きな生き方を選ぶことが許されている。就く仕事も、結婚する相手も、住む場所も誰か他の他人が口を出したり法律で制限することはほとんど許されていない。
その結果様々な考えの人が生まれ、様々な主張や文化が発展した。グローバル化も大きな影響を与えている。
多様であることを許容できる社会になった。
他方で個人の自由という言葉が盾となり、他人の生き方や考え方を批判することが難しくなった。趣味嗜好についてケチをつけることは好ましくないが、例えば社会通念上あまり良くないこと――法律で禁止されているわけではないけれど、マナーや慣習的にどうなの?という類のことについて口を出す権利すら阻害されている。
その結果、自分の物事の捉え方や価値観が非常に単一的になる。他者から価値観をアップデートされることもないし、自分自身で常に情報を整理して価値観をアップデートする機会がなければ、より一つの考えに固執しがちになる。
鈴木先生という作品内ではそれを「単一性」とよんでいる。
個々の胸の内で見れば現代は「単一性」の時代とも言えるんだ
そして個々の単一化は実はネットを通じて先鋭化しているように思える。
ネットは玉石混合のように大量の情報にアクセスできると思いがちだが、現在のネットは自分が興味ある情報ばかりアクセスするのがほとんどだ。
twitterなどは自分が関心あるニュースを発信するユーザーしかフォローしてないだろう。自分にとって不快な発言をする奴はすぐにブロックしたり、フォロー解除できる。
広告系なんかは閲覧履歴からユーザー(自分)が好みそうなニュースや広告を優先的に配信するが、逆にユーザーが興味をもちそうにないものはフィルタリングされてしまい、あまり目に届かなくなる。
私は大手マスコミの一番の害は報道する情報をフィルタリング、いわば「報道しない権利」を活用して国民の「知る権利」を著しく侵害している点にあると思っている。ニュースとして報道されなければ、私たちは事実そのものを知ることが難しいからだ。
それを補う役割として私はネットに期待していたが、今のネットも結局金払いのいいサイトが検索結果の上位にきたり、そもそも報道機関が発信したニュースをただ別サイトで載せてるだけにすぎない。結局ネットでも情報がフィルタリングされてしまっている。
さらにネットの悪い点というか、強みであるはずの双方向性が悪いほうに向かいがちだ。
ある事件についてA案とB案があるとする。
自分はA案が正しいと考えたとしよう。すると自然にA案が正しいと思う人たちのコミュニティや掲示板を見るようになる。はじめは対案としてのB案に目を向けていたのかもしれないがそのうちそんなことはしなくなる。自分にとって不愉快な意見はあまり見たくないからだ。
そうするとA案に賛成の人ばかりだから、それがいつの間にか社会全体の総意のように錯覚してしまう。そしてB案に賛成しているやつは理解できない、という風にまで思考が発展しかねない。それが例えA案支持者数がB案支持者数より少ないとしてもだ。
そしてもし単一的な人たちのうち…たまたまある同じ色の者が増え…自分たちの貧しい意見を「社会的」と見なして独走し――自分たち以外の者を敵や理解不能の異物と見なしてつぶしていったら…
多様性を認めることと自分自身が様々な観点や価値観を考慮できることは別物だ。