少数派は責められる存在か
少数派であることが何が悪い
私が腹立たしいのは「みんなやってるよ」という根拠のない言葉だ。
同時に不思議なのはそんなことを言う奴でも何かしら他人(ここではその他大勢の人たち)とは違うことをしていることがある。先の言葉を使えば「みんなやらねーよ」とツッコミをいれたくなるような言動だ。つまりそこにおいては少数派となっているのにそこは都合よく見なかったことにする。
ほとんどの人は自分がみんなと同じであることに安心感を覚える。それだけなら別に健全なんだが、この感覚が行き過ぎるとみんなと同じでないと不安という感覚になり、みんなと同じでないやつは異分子であると思うようになり、物事の基準がみんなと同じあかそうでないかというものになってしまう。
つまりみんなと同じ=正しい、みんなと違う=間違い、のような二元論が価値基準になってしまう。
要は多数派であれば自分の味方が大勢いる状態なわけだ。そりゃ気も大きくなる。だが、みんなと同じであることと物事の良し悪しとか善悪はまったくの別物だ。
「これだけの人数がいいと言っている」というのは単に数の力で押し切るだけの数の暴力であって、その判断が適切なものかどうかはまったく別の話だ。
多数派が正しい、というならば、例えば日本で死刑制度を支持する人間が現在多数派だ。(適当な記事だがだいたいどの記事も死刑制度存続が多い。)
「死刑制度は存続させるべき」が約6割 廃止派からは「奉仕活動」で償わせるべきという意見も | キャリコネニュース
この結果が「死刑制度を廃止すべき」という意見が多数となったとき、死刑制度存続派が「みんなそう言っているなら」と意見を翻したとしたら、お前ちょっとは頭使ってから発言しろやと言いたくなるではないか。
社会は変化していくし人の考えや価値観も変わっていく。味方が多い方につくというのは日和見的には正しいだろう。だけどもうちょっと自分の価値基準を明確にもっておこうという話。
長いものに巻かれるというのがポリシーなら、どうぞご自由に。